長い年月にわたり善か悪かについての論争が繰り広げられてきたゲームがあるとすれば、それはギャンブルでしょう。ギャンブルが違法とされていた時代から、最も人気のあるエンターテイメントとなった現代でも、その論争はとどまるところを知りません。ギャンブルが合法化され、オンラインギャンブルの幕開けによってギャンブル人気が急上昇している現在においても、ギャンブルが罪か否かという論争は続いています。ギャンブルは他人に危害を及ぼすような心配のない純粋な娯楽のためのゲームだと考える人もいれば、人間が何としてでも避けるべき罪であると考える人もいます。一体、何が正しい答えなのでしょうか?聖書はギャンブルについてどう教えているのでしょう?

罪なのか?

カトリックの神学で説明されているように、七つの大罪にはプライド(自己の価値についての非現実的な確信)、妬み(他人の持ちものへの嫉妬心)、暴飲暴食(過度な飲食)、肉欲(不義の快楽)、怒り(破壊的感情)、貪欲(過剰な所有欲)、怠惰(怠け癖)が含まれています。これらの大罪を考えてみると、ギャンブルをしている時には、確かにこの中のいくつかを犯しています。

ギャンブルのことを、日々のストレスからのささやかな逃避だと言い訳する人もいます。でもやはり、ギャンブルは悪い習慣なのです。

聖書にはどう書かれている?

聖書の中に、ギャンブルについての直接の記載がないのには驚かされます。しかし、聖書のみことばを通して、ギャンブルは回避しなければならないと暗示されています。ルカ12章15節には、人は常に目を開けて、あらゆる貪欲について警戒しなさいと書かれています。ギャンブルは、お金を勝ち取りたいという欲望を存分に追求させてくれます。この欲望が貪欲さにつながり、人は賞金を勝ち取るために時として家族に必要不可欠な資金の全てを前後の見境なく失ってしまうこともあります。

同様に、コリント人への第一の手紙10章24節にも、人は常に自分のためではなく他者のために利益を求めなさい、と書かれています。この教えは確かにギャンブルの世界には当てはまりません。さらに、十戒の一つ、出エジプト記20章17節は、人は隣人のものをむさぼってはならないと書いています。ギャンブルは勝つか負けるかのゲームです。自分が勝てば必ず他人が負けているのです。ギャンブルをしていると、自分が儲けたいために、他人が負けることを願う気持ちが反射的に生まれてしまいます。

聖書は避けるべきことを指摘するだけでなく、その影響についても警告しています。テモテへの手紙1の6章9節には、金持ちになりたいという強い思いのある人は、誘惑の落とし穴や、多くの無意味で破滅的な欲望へと導かれる罠に陥り、最終的に破滅への道をたどることになる、と書かれています。お金への貪欲さは身を滅ぼし、限度がなくなってしまうのです。

聖書は貪欲さを強く非難しています。ギャンブルのことが直接的に記述されていなくても、貪欲さとはギャンブルをしている時に自然に生まれる感情です。したがって、ギャンブラーたちはその感情の影響を受けざるをえないのです。

このことがコヘレトのことば5章10節でうまく説明されています。銀を愛する者は決して銀だけでは満足しなくなる。同じく、富を愛するものは決して自分の収入だけでは満足しなくなる、と。問題は、お金への欲望を長い間持ち続けると、ギャンブルが1回限りの遊びでは済まなくなることです。箴言20章21節では、さらにギャンブルについて苦言を呈し、主として貪欲さから手に入れた財産が、最終的に人を幸福にすることはないと書かれています。

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